2011-04-26

ビン・バーの戦い 1969年

今回のストーリーは、オーストラリア元兵士とベトナム戦争の話です。ちょっと長いですが、読んでください。
オーストラリアの2人のベトナム退役軍人が、旧敵の戦死者の発見のために任務を遂行中である。

彼ら戦死者は“さすらう魂”と呼ばれている。オーストラリア軍が作戦行動をとっていたところでは、どこに埋葬されているかわからない旧北ベトナム軍の行方不明兵士3906人がいる。 家族が知るまで、死者の霊が苦悩したまま彷徨(さまよ)っていると、戦死者の家族らは思っている。

しかし、戦った元オーストラリア兵は知っている。戦闘で3906名を殺した後、彼らをベトナムの野原、ジャングルやゴム園に葬った場所を記録しているからだ。

死者は、北ヴェトナム人民軍兵士又はベトコン・ゲリラの兵士だ。 彼らは、1975年に戦争終了後以降、戦闘中の行方不明兵士にリストされている何十万人ものベトナム人兵士の氷山の一角にすぎない。
ベトナム戦争が終結した時点で、オーストラリア側には、6人の行方不明兵士がいた。それから40年後、彼らの遺骨も発見され、国旗に包まれた棺に収められて帰国を果たした。政治家が勇姿を讃え、将軍が敬礼し、軍のラッパが弔奏した。そして、遺族はようやく愛する人を埋葬することが出来た。

オーストラリアの調査官の中に、ベトナム側の死者を葬った旧兵士がいた。彼らは思った。我々がそのさすらうベトナム兵の魂の発見の手助けが出来れば、われわれが共有する歴史の章を閉じられるのではないか・・と。

調査官たちは、遺体がどこに埋められたか正確にわかっている。オーストラリア兵が書いた埋葬場所の地図とベトナム側の記録と合わせれば、兵士の名前もわかるのではないかと考えている。「そうすれば『さすらう霊魂』も帰宅して、ベトナム人家族のもとで休むことができる。オーストラリアの退役兵士にとっても、そうすれば、戦争が終わった後でも多くの慈悲の気持ちがあることを示すことになるのではないか」と、歴史家でありベトナム退役軍人であるデリル・デ・ヒアー氏は言う。

デ・ヒアー氏は、1966年から1971年まで当時の南ベトナムのフック・トゥイ省に駐屯したオーストラリア第1機動部隊の軍事経験に関する大きな研究プロジェクトを行なってきた豪州国防軍士官学校のNSW大学チームの一員である。

このプロジェクトは、2500以上の場所でオーストラリア軍が関与した4500の戦闘を記録にとった。それらの場所で、オーストラリア軍は3906遺体を埋葬した。それらの遺体は、待伏せ中に殺された敵兵と6人の一般市民である。

遺体の数が最も重要だというなら、ベトナムで500人の戦死者を出したオーストラリアはベトナム戦争の一部を勝利したことになる。 しかし、ベトナム戦争の勝利者は、最も戦死者を多く出した側だったのだ。

ベトナム戦争中のオーストラリア軍の方針は、敵を殺した場所に埋めることだった。主として、敵兵は一人とか二人で葬られた。それは、オーストラリア軍が戦った戦闘の形態を映している。つまり、小グループの間での短期的で急激な戦闘だったのだ。

2009年に、オーストラリアの行方不明兵士(MIA)6人の最後の一人が帰還したのは、この調査の期間だった。

デ・ヒアー氏は、こう話す。 「我々は、ある日車座になって話していた時、『我々は、すべてのベトナム人遺体をどこに埋葬したかわるよな』という話になった。そして、我々は考えた。『我々が埋めたこれらすべての人たちは、彼らにとっては行方不明兵士なんだよな』」って。

調査チームの責任者である歴史家のボブ・ホール氏は、ベトナムが60万人もの行方不明兵士を抱えているのに、オーストラリアの行方不明兵士の発見を手助けしてくれたベトナムの努力に恥ずかしさを覚えた。


2週前、ラッド外相はホーチミン市を訪問し行方不明オーストラリア兵士の発見に尽力してくれたことに対して、ベトナム当局者に謝意を表した。恐ろしい戦闘の後、兵士の遺骨が故国に帰還したことは、「我々共有する歴史の章をすでに閉じたことを意味する」 。ラッド外相の発言は時期尚早だった。

「彼らがかつて与えてくれた援助にお返しして、我々がベトナム人の行方不明兵士の一部でも発見できるように、出来ることのすべてをすることが私にとってはフェアの精神のようにみえる」と、ホール氏は言う。こうして、無名戦士の名前を掘り起こすために、彼らの研究は新しい段階に入った。 彼らは、その作業を「彷徨(さまよ)える霊魂作戦」と名付けた。

 この作戦にかかわっているデ・ヒアー氏の心には、過去の似通ったことを思い出す。40年前、彼はベトナムで、陸軍の第1心理作戦部隊(第1PsyOp)の軍曹だった。部隊の役割は、戦闘停止を奨励する宣伝をして敵兵の士気をそぐ任務も入っていた。

ビラと放送では、戦闘で死ぬば、体もなくなるという敵兵士の恐怖心につけこむベトナム伝統の信念を巧みに利用した。そして、 心理作戦には、いわゆる「さすらいの霊魂」というテープを放送したことがある。

デ・ヒアー氏は言った。「我々は、夜間に行動をした。なぜかというと、敵は全くしばしば夜間に行動していたからである。そしてまた、夜間の気温が下がった時に、音はより遠くに伝わるからだった」と。

デ ・ヒアー氏には、戦死者を見つけ埋葬することがベトナム人にとってどのくらい大切なことか経験上分かっていた。

彼は、フック・ハイ村の近くで、3人のベトコンを待伏せして、殺した時の1970年8月の話をした。

その翌日、殺されたゲリラの1人の年老いた父親が、自分の息子の遺体を捜して、村の警察署長のところに行った。逆に、 「あなたは、遺体を見つけ出すことができるか?」と、警察署長はヒアー氏に尋ねたのだ。

デ・ヒアー氏は、話を続けた。 「それで、私はその老人と別のオーストラリア兵のところに行き、我々は出かけた。遺体は砂丘の中に埋めてあった。我々は手で掘った。-信じられるか。我々はシャベルを持っていかなかったのだ。-そして、我々が最初に掘り起こした遺体が偶然その人の息子だったのだ」

「そして、2つの点で私の心を打った。まずは、その老人の父親がいかに悲しみに打ちひしがれていたかだった。私は、自分の人生でそこまでの悲しみを見たことがなかった」

「私は、遺体を運んだ … そして、我々は遺体を連れ帰った。私は彼の家まで運んであげた。私は、通訳を通して、遺体を綺麗にしたいと申し出た。しかし、答えはノーだった。その老人は、自分の手でそうしたかったのだ。 … 幸運にも、ゲリラは、父親の手で傷口はきれいになった。傷によって醜くはならなかった」

「私の心を打った2番目のことは、その父親は悲しみに打ちひしがれ、且つ私たちを本当に憎んでいたが、その父親は、私の手を何回も何回も握ったのだ。それは、自分の息子の遺体を取り戻すもどことができたことに感謝していたからだ。だから、彼はその霊魂を休ませることが出来たのだ」

ボブ・ホール氏は、ベトナム戦争で1969-70年に従軍し、22才の大尉だった。彼の小隊は、いくつかの小競り合い、-衝突というべきか-に関わった。「そして、我々はその結果遺体を埋葬した」と、彼は言った。

戦争中、オーストラリア軍は、軍事行動後報告書に、衝突ごとに、時間、日付、場所と殺した人数を記録していた。埋葬地には、軍の地図に印を付けた。

研究の一部として、ホールとそのチームは、地図上の印を緯度と経度に変換した。そして、Google Earthの地図上にその位置を入力した。

昨年、ホールとデ・ヒアーはベトナムにデータを持って行き、ベトナム政府の役人と40年前に戦った兵士を含めてベトナムの退役兵士に手渡した。その資料は、 ベトナム側に、オーストラリア軍に殺された全兵士の埋葬場所を知らせるものであった。

デ・ヒアーは、ベトナム側の反応に触れて、「彼らは、全く興奮した。彼らにとって、自分たちの兵士の埋葬場所を知ることは、大きな安堵になった」と言った。
このデータは戦死者の埋葬場所を示すのだが、名前がわかるというものではない。名前を合致させることが、”彷徨える霊魂作戦”の最終部分になる。

ホールのチームは、かなりの高い確率で、オーストラリア兵が作った地図に付けられた墓から、ベトナム兵の名前を合致させられるとみている。 これには、公式のベトナムの記録、遺体から集められた文書を照合して、オーストラリア側の地図からのデータと突き合わせる作業が必要だ。

彼らは、この調査作業の費用として5万ドルかかると推定している。 しかしながら、連邦政府に資金を求める訴えは、官僚の足並みが揃わず失敗に終わった。DNA識別の技術援助を含めてベトナム政府の行方不明兵士捜索事業には適所の支援を提供していると、オーストラリア政府は表明した。

政府の考えに、ホールのチームを困惑している。政府の提案は、死者の識別により速く、より簡単で、より安価な方法を使っている、とチームは言う。

そして、政府援助を求める他に、チームは、戦場で採取した戦死者の手紙、日記、写真を返還するように、オーストラリアのベトナム退役軍人に訴えた。

その目的は、和解行為の中で、戦死者の家族に私物を返還することである。それらがあれば、特定の墓で戦死者を特定することも可能になるからである。

説明が難しくないものを変換出来れば、ホールやヒアーらが、旧敵の家族にいくらかでも心の安堵を与えられると考えている。

「これは正しい行為だと、私は思う。我々は、この情報があるということを知っていた。 我々は、この情報がベトナム人にとって重要であるということを知っている。 率直に言って、私自身がこれらの少しの2つの情報を知りながら、それについて何もしないで、私が生きていくことはできない」と、ホールは言った。

シドニー・モーニングヘラルドの記事から
北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊 Since 1990
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Posted by Picasa

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