2011-02-25

桜田先生の書き遺したもの(4)

さて、今回は、先生の大学院生時代のことが書かれています。

(3)恩師と恩人 追悼

 朝日新聞12日朝刊の死亡欄に何気なく目を移し、くぎ付けになった。

 「田沼 肇(法政大学名誉教授・原水爆禁止日本協議会代表理事)8月9日午後2時33分、進行性核上性まひのため都内の病院で死去、74歳。葬儀・告別式は故人の遺志により親族だけで行う」とある。

 故田沼肇先生は、私の法政大学院生時代(1966~75)の恩師。修士・博士課程を通しての指導教授である。

 1960年に上京した私は、かねてからの日本女子大の通信教育課程を1年間通学して卒業。後、東洋大学の職員に作用され、経済学部の資料室付きで、学部の先生から言いつけられた雑用をのんびりとこなしていた。ヒマな夜間を利用、同大学二部社会学部Ⅱ2年間在学(3年編入)し、種々の勤労学生の仲間と楽しく交わりながら、学ぶ喜びをかみしめていた。夜間部の講義からは、およそ現代社会の構造や特徴を教わり、特に生活問題への関心が高まる中で、引き続きの学びの場を探すことにした。そして、大胆にも開設間もない法政大学大学院・社会科学研究科の社会学専攻・修士課程Ⅱ挑戦、幸運にも合格したのだった。

 私は、ここで初めて、社会科学の本格的な講義やゼミナールを受ける機会に恵まれた。だが、当然、基礎的な素養に欠ける私には、消化不良気味。修士論文のテーマを「家族規制と婦人労働」としたように、私の関心分野は、労働・生活問題を扱う「社会政策」で、田沼先生の専門領域であった。

 ただ、学外でもお忙しい田沼先生の指導方法は、求められれば簡潔に応える式で、懇切丁寧の反対。親しくご指導を仰グ機会を見つけられぬままに時間が過ぎてしまった。修士論文作成の準備も遅々として進まず、3年目に、ようやく提出。これを読まれた先生からは、鋭い指摘とともに継続的な研究の必要性を説かれ、博士課程への進学を進められた。その後の5年間を博士課程に籍を置くことになった。

 とはいえ、この間は、目指すところと異なり、さんざんであった。大学紛争真っ只中で、特に法政大学は熾烈を極め、ロックアウト下、大学内での講義やゼミはほとんど不可能。先生方からのご指導も受けられずに、勉学・自習中心であった。

 ただ、そのような中でも、田沼先生の現状分析の鋭さと対応方策の確かさに圧倒される場面がしばしばであった。私のその後、待ったなしの判断を要する場面で、ご指導を受けた片鱗が鮮やかに甦がえり、先生の存在を改めて確認する機会が何度もあった。にもかかわらず、不肖の弟子でもある私は、先生とは疎遠となり、なんと25年間が過ぎ去ってしまったのだ。反省と合掌。

 このような院生時代Ⅱ終りを告げ、1974年4月、長野大学に、社会福祉学科創設時の教員として着任した。この人事は、法政大学経済学部の教授・古川哲先生が進めてくださったのだが、大恩人である古川先生もすでに故人になられている。突然の交通事故で亡くなられたのだ。

 思えば、長野大学への応募では、私のような年齢超過(着任年で40歳)、なおかつ研究実績の極めて貧弱な人間が、文部省申請の難関を切り抜けられたのか。今もって定かではないが、古川先生の人柄から発し、全てに幸いし、私をして他に考えられぬ進路を与えてくださったように思われる。感謝あるのみ。もって瞑すべし。(2000年6月19日)

 この遺稿の中に出てくる”法政大学院生時代(1966~75)”は、ベトナム戦争時代と重なりますね。しかも、1966年というと、ベトナム戦争が一番激しくなったころです。院生がおわったのも1975年で、ベトナム戦争終結と重なり合います。桜田先生は、この時期を、修士・博士課程で戦っていらしたのですね。
ベトナムの奨学生には、理解してもらえる単著になるのではないでしょうか?
北村 元 愛のベトナムさわやk支援隊since1990
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