2010-10-14

支援の旅(51)フート省6豚支援1

午後はフート省の田舎に、豚の贈呈にまわりました。一言で枯れ葉剤被害者家族といっても、千差万別です。被害者家族という抽象的なくくり方をしていくと、本当の人間を見失ってしまうことがおそろしいです。豚の支援は病気にならなければ楽しみがあります。が、どこまでも一個の人間と向き合うこと、そこで話を聞き、何が苦しいのか、何が大変なのか、どんな家に住んでいるのか、を知ろうとすることで、初めて人間主義の基本に立てると思っています。

「物事は上から見ると3割しか見えず、下から見れば7割見える」とは、恩師の言葉です。

だから、奨学金贈呈でも、証書を渡すことも大事ですが、一言でも会話したほうが先が広がります。もちろん、大勢の人が見ている前で証書を渡すこと自体は、大きな励ましになることは事実ですが。そういう点でも在宅訪問での素顔の話は、誠に大事です。
午後のトップは、ブイ・スアン・ハイさんのお宅です。仕事は農家。行政区でいうと、省都ヴィエッチ市のはずれになります。長年わが支援隊を支援して下さっている山本邦子さん(東京・板橋区)のご厚志をお届けしました。

贈呈書を渡す佐々木さん
ブイ・スアン・ハイさん(右から3人目)↑は、1949年生まれです。お孫さんを抱いている方が、奥さんです。グエン・ティ・フーさん。フート省のフー(富)ですから、日本語にすると「トミ」さんです。

ハイさんが軍隊に入ったのは1968年12月でした。その激しいテト攻勢の年の暮れです。
まずは,ご主人の話を聞きました。

「ラオスのサバナケットです。2年間いました。

その後、現トゥアティエン・フエ省のアーサオ、アールオイに移動しました。そこで1年間駐屯しました。その当時は、枯れ葉剤が撒かれたのを、たくさんみました。木がすべて枯れました。

撒かれる時は防空壕に入りましたが、防空壕が壊れた時もあり、浴びてしまいました。自分自身は、何回も浴びました。ラオスでも浴びました。

臭いは感じませんでした。爆弾の煙の臭いも残っているので、臭いは感じませんでした。実際どんな臭いか自分にはわかりません。色は、黄色に見えました。枯れ葉剤の知識は当時はまったくなかったので、池の水、川の水は普通に飲みました。」
タオルを口に当てたことはありましたか?「いいえ、1回もありませんでした。それが何かわからなかったからです」

体に何か障害がでていますか?「背骨に何か異常を感じます。弱くなっているというか・・」
頭が痛くなることは?「痛くなりますよ。」
薬は飲んでいますか?「薬を飲んでいます」

ハイさんは枯れ葉剤被害者に認定されています。手当も、月127万7000ドン受けています。

仕事は農家。お子さんは二人。二人共男の子で、障害をもっているそうです。一家で一緒に住んでいて、長男に子供(孫=男の子)がいます。「お尻の所と足に肌の色が違うので、この子も何か影響があるのではないかと思っています。これは、精密検査をしないと軽々にはいえません。

「次男も普通に生活できますが、智恵が遅れています。上の子は高校3年生まで進みました。次の子は中学を4年生まで行きました」と、お父さんは言いました。
今日は1頭の豚を贈呈しました。この家は、すでに子どもが8頭生まれたので、1頭だけにして、もう1頭分のお金はエサ代に充てることにしました。それにしても、親豚は立派ですね。西郷隆盛が連れている上野の銅像を思い出しました。ここの1頭の子豚が加わります。贈呈書は、佐々木あかねさんから。

私たちは、1頭の豚に名前を付けています。このお宅は、支援者の名前をとって、「クニ(邦)ちゃん」です。

「家族を訪問して、豚を贈呈して頂き、ありがとうございました。豚を良く育てて、家族の経済が良くなるように面倒をみます。」と、お礼のご挨拶がありました。

ハイさんに3回ほど「クニちゃん」の発音練習をしてもらいましたが、あまり上手ではありませんでした。「キムちゃん」と発音したり、「キムチ」に聞こえました。
奥さんのフーさんの方が上手でした。見事「クニちゃん」と、元気な声で発音してくれました。
皆から拍手が湧きました。
日本から運んできた衣類を、代表して梨沙さんから奥さんのフー(富)さんに渡してもらいました。

この後、皆で日本のうたを合唱↑して失礼しました。(新谷さんは、ハンドロール・ピアノを弾いているので、写っていません)
そして、恒例の記念撮影をお宅の前でしました。
はい、2軒目へ出発です。(つづき)

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