2009-09-29

支援隊ツアー09(29) トゥイーチャム1

食事が終わって、ニンさんは、庭の隅にある避難壕まで案内してくれました。ニンさんのご家族が入った避難壕。そして、ハノイからボランティアでやってきたトゥイーチャムも入った穴です。戦後34年を経て、なお入り口の木枠はしっかりしています。
避難壕は今もカムフラージュされていました
皆の心配をよそに、この避難壕に、北村修治さんが入りました。かなり奥深くあるということです。入ると、少し行って右に曲がり、また鍵の字に左に曲がって、終点は庭の中央あたりまできていると、ニンさんは言っていました。入り口から銃で撃たれても、銃弾が奥までこないように、工夫したのではないでしょうか。
歓迎してくださったお礼に、ニンさんを含めて、地元のご婦人に、歌を披露させてもらいました。
ベトナム語の歌詞をみるニンさん

ニンさんは、トゥイーチャム医師の思い出を話してくれました。

「優しい方でした。私とは6歳違いでした。”ハノイの博士”が来てくれたと思っていました。美しい人でした。美しいお医者さんでした。1967年~1970年まで、家族のように過ごしました。私の母はよく面倒をみてあげましたし、彼女は私たちの面倒をよくみてくれました。アメリカ軍に見つからないように、あの避難壕にも、トゥイーチャムとよく入りました。

彼女は、山で、医療のことを5ヶ月くらい教えてくれました。患者さんにとても優しい人でした。医者の心を教わったように思います。当時、私を含めて字をかけない人も多かったのです。彼女は、文字も教えてくれました。頭が良くて、「先生」「友人」「お姉さん」として、忘れることはできません。

トゥイーチャムは、国が必要な時に、自分の命をかけて戦った人です。トゥイチャムが亡くなったとき、本当に心が痛みました。それは、自分が死んだのと同じことであり、「先生の死」であり、「姉の死」でもありました。1970年6月22日の午後3時ごろ殺されたそうです。私は、夕方の6時ごろ、知らされました。

自分のいたところで、まずお花を捧げました。当時戦闘が激しかったので、すぐはお墓が作れませんでした。3ヵ月後、情勢が落ち着いたときに、皆と一緒にお墓を作ってあげました。遺骨はハノイに移されましたが、毎年お墓参りは欠かしたことがありません」

トゥイーチャムとともに戦争時代を生き、トゥイーチャム医師の清き精神に触発されたニンさんは、いまもゆかりのトゥイーチャム診療所で、彼女の心を伝えています。

幸運にも戦争を生き抜いたご婦人と一緒に
驚いたことに、一人のご婦人(ニンさんの後ろに立っている方)が私のところにやってきました。「実は、私の息子が、日本に留学していまして、名古屋市東区に住んでいます」・・・世間は狭いですね。日本と、まるで縁もゆかりも無い所ではなかったのですね。
トゥイーチャムの遺影(右から二つ目の写真)をバックに、記念撮影をしました。
「ニンさん、地元のご婦人の皆様。お世話になりました。本当に歓待ありがとうございました。楽しい交流でした」Posted by Picasa

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