2009-09-26

支援隊ツアー09(21) クアンガイ11

8月19日:すがすがしい日の出の頃、支援隊の何人かは、少しひんやりとする道を散歩したようです。私は、だめ。こういうツアーでは、ぎりぎりまで体力を温存する方です。皆フォーを食べて出陣です。
1軒目は、レ・ヴァン・タンさん、ファム・ティ・ミン・タムさんの家です。国道1号線のまん前。交通量が少ないので、全員で一気に横断しました。
最初に豚支援をしました。原正枝さんからのご寄付で豚を1頭買わせていただきました。「まさえ」のお名前をとって、「まさちゃん」と命名し、贈呈書は大釜一男事務局長からお渡ししました。ありがとうございました。
2頭目は、金原 昇さんのお名前を使って、「きんちゃん」とし、贈呈書も金原 昇さんからお渡ししました。
豚贈呈書ににっこり
ご主人のレ・ヴァン・タンさんは、1959年の生まれです。戦場には行っていません。終戦後に軍隊に入ったそうです。
奥さんのファム・ティ・ミン・タムさんは、1955年の生まれです。
二人は、ドゥックフォーで知り合いました。フォーニン村とフォー・ヴァン?村で、仕事が一緒だったそうです。
奥さんのファム・ティ・ミン・タムさんは、戦争経験があります。クアンガイ省で軍務に従事。物資や米を運搬した。「枯れ葉剤の散布は見たことあります」と言ったが、これは軍務に従事する以前のことのようです。
タムさんのクアンガイでの軍事活動は、1972年から75年までです。「この間は、散布を見ていない」と言いました。これはほぼ正しいと思います。軍務に従事する前の話だとしたら、十分ありうる話です。「水を飲んだこともあります」とも、言いました。
施術中の三田村さん

アメリカ軍の散布は1971年に終わっています。しかし、旧南ベトナム政府軍も散布を終えたというわけではありません。アメリカ軍は、自分で撒かない代わりに、南ベトナム政府軍に撒かせています。

その後79年から1984年まで、奥さんはラオスに派遣されました。婦人にとってはかなり長期間です。アメリカ軍が枯れ葉剤を撒かなくなったといっても、ダイオキシンまでが活動を停止したわけではありません。

タムさんは妊娠したけど、1回流産したそうです。1989年のこと。
「流産した赤ちゃんは、ほんとうに小さかったです。本当に悲しいです」
「以後何回も病院で検査しましたが、お医者さんからは、『子供はできない』と言われました」  彼女の目に、涙がにじみ出ました。

チュオンソンなどの山に入っていった女性は、多くの人が子どもを産めない体で戻ってきています。母になれる夢が、あの戦争によって壊された可能性は非常に高いです。戦争が終わったら、皆自分の幸せをつかもうと考えていたわけですから。

子どもが産めなくなったご夫婦は、今、養子をとっています。名前は、レ・ティ・トゥー・チャンさん、12歳。

「彼女が生まれてすぐ養子にしました。娘は、父親と母親を知りません」と、タムさんは小声でいいました。お嬢さんは健康のようです。下見の日、養女のチャンさんが奥から出てきて、驚きました。

奥さんは、「あまり健康に自信がありません。骨が痛い。かかとの部分が痛い。毎日痛いので、遠くまで歩けません」と言いました。

そこで、三田村さんが整体施術をしました。
「お腹の硬さがきになりますね。便秘気味ではないですか? 血便がでませんか」などと、次々と質問を発しました。「大腸は昔から痛かった。薬飲んでも直らなかった」と、タムさんは言いいました。

が、名古先生も気になって触診しました。「腹部の触診では、圧痛、筋性防御(きんせいぼうぎょ)、ブルンベルグ徴候などは無く、肝腫大、子宮筋腫も確認できませんでした。大丈夫ではないかと思います」と。とりあえずは、一安心。

誇り高き使命を帯びて、人間群に飛び込んで、社会の荒波を見据えてきたベテラン医師の信頼の一言は、千鈞の重みをみせるものです。

職業は、農業。1072平米の農地で耕作できるのは、ご主人だけ。
年間で収穫は平均1トン。奥さんには、月71万7000ドンの手当てがあります。

唱歌を歌いました。喜んで下さいました。

今住んでいる家は、2006年11月に完成した家で、枯れ葉剤被害者協会の支援で建てられたと聞きました。その家の前で、記念撮影をしました。Posted by Picasa

0 件のコメント: