2009-09-18

支援隊ツアー09(12) クアンガイの塩作りで思うこと・・

今回は、クアンガイ省塩田をみて思ったことを書きました。
少し長くなりますが、おつきあいください。
(*_*)(*_*)(*_*)(*_*)(*_*)(*_*)(*_*)(*_*)(*_*)
リチャード・アッテンボロー監督の映画「ガンジー」のクライマックスは塩の行進でした。
マハトマ・ガンジーとその支持者が、イギリス植民地政府による塩の専売に反対し、塩作りの為にグジャラート州アーマダバードから、同州南部ダーンディー海岸までの約380キロを抗議の行進したのが1930年でした。3月12日から4月6日まで続き、イギリスからの独立運動では、これが重要な転換点となりました。

当時、インドでは塩を作ることが禁止され、国民はイギリスから輸入の高価な塩を買わなければなりませんでした。この植民地政策に、ガンジーは自らの手で塩を作ることで抗議しようと考えました。海までの380キロを自らの足で歩き、時間をたっぷりかけて抗議の姿勢を示しました。 

60歳を越えたガンジーの行進は、3週間超。たっぷり時間をかけた抗議の行進には、たっぷりの人々が加わりました。世界も応援し始めました。ガンジーはイギリス政府によって逮捕されましたが、イギリス政府は、ついに沿岸の住民に限りという条件付きで、製塩の許可を与えないわけにはいかなくなりました。

「国会に入った政治家は大衆から遊離する」と、マハトマ・ガンジーは常に強調していたそうです。「権力を得ると、人は民衆を忘れます。民衆とともにあり、民衆のために尽くすことが、最も大事です」とも。どこの国の為政者にも通じる話しです。

では、ベトナムの宗主国だったフランスはどうか。フランス北東部に位置するロレーヌ地方は、1856年に岩塩鉱の採掘作業が始められて以来、塩産業が盛んな地域です。ヨーロッパでも屈指の「岩塩」を採掘する国です。

フランスは、ベトナムで、最初は、「岩塩」を超安価で徹底販売し、ベトナムの脆弱な「製塩事業」を潰しにかかりました。ベトナムでの植民地政策で徹底した事は、「塩」の強制消費でした。ベトナム人の「製塩業」が完全に破綻したとみるや、自国から運んだ「岩塩」の強制販売に移ります。一人当たりの年間消費量を押しつけ、強制購買させます。

『塩』は人間の生活に欠かせない物です。ベトナム外務省の職員から聞いた話です。

「抗仏戦争時代・・塩がなくて、足がぶくぶく脹(ふく)れてきました。塩がなければ戦えません。なんとしても塩がほしい・・自分たちは、フランス軍の基地を襲いました。彼らは、『すわ、武器を守れ』というので武器庫の守備を固めました。こちらは、武器より塩が欲しいだけです。キッチンを狙いました。そして、塩を奪って悠々と逃げたのです」

ちなみに、この方はもう亡くなられましたが、フランス語は堪能な方でした。

最初は安くした「岩塩」をいきなり高騰させ、フランスは、あこぎな方法でベトナム人に強制消費を強いました。破産した者は、南部のゴム園に送り込み奴隷労働に従事させ、経済支配を確立させました。まず、フランスはベトナム南部でゴム園の効率経営をするため、多くの奴隷のような労働力を駆りたてました。フランスのゴム産業のためです。そのためにベトナムの北部から南部へ働き手を強制移住させる手をあれこれ考え、「塩」を巧みに使ってベトナム人を在住地から追い立てる事を考えました。

フランスが、ベトナムでしたこと、いやインドシナでやったこと。産業は起こさない。学校もほとんど建てない、刑務所はあちこちに作って人をぶちこむ・・・

いや、ひでぇ国だと思うでしょうが、日本もベトナムでやったことはほめられません。それは、あとで。

クアンガイ省ドゥックフォー郡の塩田

塩作りは、あくまで天候に依存します。少雨X強い太陽=塩の豊作 という図式です。

海水は10日間、海水濃度を高めるために蒸発層に置き、空気にあて続けて乾かします。が、まず塩田は水を引き入れる前に地面を叩いて地ならしが必要です。海から海水を用水路を通して引き入れ、徐々に塩分濃度を上げながら塩田まで引き込みます。その後水を入れて約3日かけて水分を飛ばします。途中で塩田をかき混ぜてより水分を飛ばしやすくします。二日目になると、もう塩は真四角な結晶になっています。塩田に固まった塩の結晶をトンボで割りながら集めていきます。

真夏の暑い時期しかできない塩田での塩作り。一家総出の過酷な作業です。塩田一区画から約50kgの塩が取れるそうです。一般的には、塩田の作業は5月から9月までです。

塩の主産地は、ビントゥアン省。ベトナムの「塩」の首都をめざすニントゥアン省。カインホア省。クアンガイ省などなど。ベトナムの塩はおいしいです。

ドゥックフォー郡

悠に3,300キロメートル以上もの海岸線を有するベトナムは、塩に生産にはこと欠かない原料は無尽蔵にあります。しかし、現実は、ベトナムは塩の輸入国です。

塩の値段は季節によって変わるので、塩生産者の生活は非常に不安定です。ベトナムが今年、数十万トンの塩を輸入するニュースを聞いた。塩作りは実に数多くの困難に直面しています。

1トンの塩の買値は、30万ドン~40万ドン。費用を差し引いた後、塩作りの家庭に残る純益は、1年間をやっと暮らすことのできる金額だとか。雨季には、石工、大工をしたり、魚の運搬をしたりと、副業をして金を稼がなくてはなりません。塩は塩田農家には、私たちが味わうより、もっとしょっぱいものです。200トンの塩を生産しても、費用差し引き後の一家の所得は日本円で14万円しかならない家庭もざらです。

それでは、最後に、日本軍の話です。太平洋戦争の冒頭で、日本軍はインドシナ三国を占領しました。1945年3月にヨーロッパでフランスがドイツから解放されると、3月9日、仏領インドシナで、日本軍がフランス軍を攻撃し制圧する明号作戦(めいごうさくせん)を展開しました。結果は、1945年8月15日までベトナムを占領することになるわけです。

この間、日本軍のやったことは、紅河デルタを中心に北部では米作に代わって、軍需物資のジュートの生産を強制し、米はメコンデルタから列車で輸送することととなりました。紅河デルタ地帯といっても、現在でも7省あります。広大です。ところが、1944年~1945年にかけて、北部デルタを凶作が襲いました。なおかつ、戦況は悪化し、南部からのコメが届かなくなった北部では、食べる「コメ」がなくなりました。このため、50万とも200万とも言われる餓死者がでました。

しかし、その数は、限りなく、200万より50万の方に近いのではないか、と考えます。が、50万であれ、200万であれ、多くの死者が出たことは間違いなく、日本軍のやったことと、フランスが厳しい塩の政策をとってベトナム住民を苦しめたことに、大きな相違はないのではないでしょうか。

私が、ベトナム支援をしていることの動機の1つに、このことがあります。ベトナムは、日本に対する戦争の賠償請求権を放棄しました。ならば、それに報いるためにも、又過去の行為を償うためにも、今戦争で苦しんでいる枯れ葉剤被害者のお手伝いをしたいと思ったのです。Posted by Picasa

0 件のコメント: