2008-08-14

ダン・トゥイ・チャムの日記(1)

ベトナムでは、今、ベトナム戦争中の激戦地の一つ、クアンガイ省の野戦病院でアメリカ軍と戦って死亡した女医ダン・トゥイ・チャム(27歳)の日記がアメリカや故国ベトナムで出版されて、もう3年になる。新鮮な旋風を起こした。
私は、2008年3月、枯れ葉剤被害者支援のかたわら、彼女が働いていた病院の一つと彼女と行動を共にしていた人と会った。その人たちの写真は、(2)に掲載する。美しき省・クアンガイの人々の暖かい心に捧げたい。

 「私は、十分な薬もないのに虫垂炎の手術をしなければならなかった。しかし、その若い負傷兵は一度も泣いたこともうめき声を上げたこともなかった。彼は、笑みを絶やさず私を励まし続けた。彼の乾いた唇が作り出す作り笑いをみて、彼の疲労を知って、私は彼に申し訳ないと感じた・・・私は軽く彼の髪の毛をなでた。私は、彼に伝えたかった。『私が直すことが出来ないあなたのような患者には、私が一番心を痛めます。そして、その記憶は決して消えることはないでしょう』と。」

 ダン・トゥイ・チャムの日記は、こういう書き出しで始まっている。
女医の母ドアン・ゴック・チャムさん
 ダン・トゥイ・チャムとは、ベトナム戦争でアメリカ軍と戦い、アメリカ軍の攻撃から自分の担当する野戦病院を守ろうとして殺された北ベトナム軍医だ。元アメリカ情報士官の手元で35年間眠っていた彼女の日記が2005年に世に出てから、ベトナムでは40万部を売って一大旋風を起こしている。ベトナムの若人にも、愛国的ノスタルジアの波紋を広げている。今年の9・11にはアメリカで英語版も出た。

 58,000人のアメリカ軍兵士だけでなく、推定300万のベトナム人の戦死者を出したこの戦争についての日記を読んだ人は、今までで一番心を動かされたし、且つ正直な描写だと評している。

日記の一部

 1965年という分岐点の年の3月から12月まで、南ベトナムに駐屯するアメリカ軍の軍事顧問団に、20万の武装兵士が加えられた。農業と漁業の極貧小国での地上戦の始まりを告げる物であった。

 アメリカ軍の攻撃をかわしながらホーチミン・ルートを3ヶ月かけて志願して南下して行った多くの北ベトナム人民の一人が、ダン・トゥイ・チャム医師だった。1967年、彼女が23歳の時だった。

 医者一家出身のチャム医師は、1967年に、中部ベトナムのクアンガイ省のキリング・フィールドの野戦病院に自ら希望して勤務についた。日記は、その翌年の4月から始まっている。その年のテト攻勢を受けたニクソン大統領は、史上最大の空爆を計画、実行したのである。

 友人や家族は、彼女のことをミドルネームでトゥイと呼んでいた。最初、彼女は、そのような困難な仕事を引き受けるつもりはないようにみえた。彼女は、金持ちの子どもではなく、文化と教育の素養ある子どもだった。もちろん当時は、北ベトナムに富裕な人などいなかった。南下を続ける彼女の長い行脚は、中部ベトナムのクアンガイが終点だった。クアンガイは、素晴らしく美しい地域であり、そびえ立つチュオンソン山脈の山の端が、黄金色をした壮大な南シナ海になだれこむ所でもある。

 トゥイの専攻は科学と医学だったが、一方で音楽は大好きだった。ギターが得意であり、ヨーロッパの古典音楽からベトナムのポピュラー音楽までを愛聴した。彼女はまた、詩や文学にも堪能だった。彼女の同級生は、彼女は魅力的であり、健康的で、人なつっこく、素敵な笑顔を持った女性だという。

 トゥイは、保健衛生局の医者であった。南ベトナムでは、つまりベトコンとよぶ南ベトナム民族解放戦線の指導の下で働いていた。クアンガイ省のジャングルの山中の陣地に隔離された小病院で、彼女は一度に8人もの負傷兵を受け入れていた。そういう病院は、一般的にアメリカ軍の“無差別砲撃地帯”に置かれていた。つまり、アメリカ軍のポリシーでは、敵兵士であれ見方の兵士であれ、ベトナム人が目撃されれば無差別に発砲することが許される地域である。彼女の病院のうち3箇所は連続で、アメリカの空爆で壊滅されたか破壊された。

ベトナムで出版された本と日記
 1968年7月25日の日記のように、トゥイはしばしばアメリカ人に深い憎しみを表している。「まあ、なんと、この戦争は憎むべき物か! そして憎めば憎むほど、悪魔は元気に戦ってくるのだ。われわれの善良な人々を、彼らは一体どうして発砲し、殺すことを楽しんでいられるのか?人生を楽しみ、多くの夢を抱いて苦闘し暮らしているこれらすべての若者を殺せる心臓を、どうやったら持てるというのか?」

 爆撃が彼女の病院に迫ってくると、日記は、チャム医師が目撃する恐怖を同情と怒りの言葉を使って、かわるがわるいろいろ表現で記録している。アスピリンと包帯で重い傷を負った仲間の治療に疲労して、彼女は、1970年5月の日記にこう書いている。「犬畜生、ニクソンは馬鹿で気が狂っている。彼は戦争を拡大しているのだ・・・。なんと憎むべきことか! 私たちは皆人間だ。しかし、一部の人は非常に残酷で、他人の血を自分たちの金の木に水代わりにやろうとしているのだ」。また別の日には、爆撃が「木々を剥いで」「家を木っ端微塵にして」いるので、「死が身近にきている」と書いている。

 1970年6月20日、チャム医師が戦死する数日前に書かれた最後の日記は、偲びがたいほど辛いものがある。「私は成長した。すでに困難と向き合って強くなってきた。しかし、なぜこの瞬間、私の面倒をみてくれる母の手を欲しがっているのか?安心させてくれる私が知っている人の手を必要としているのだろうか? 私が孤独になった時にどうか、私の所までやってきて、私の手を握って欲しい。私を愛してほしい。私の前につながる茨の道を切り抜けていけるように、私に強さを下さい」
トゥイ・チャム医師(クアンガイで)
 彼女が27歳で亡くなる直前、爆撃で彼女の患者5人が亡くなる事故があった。チャム医師は、残りの患者とスタッフを安全な場所に移動する手伝いをし、二日後、彼女は当時人のいなくなった病院を破壊していたアメリカ地上軍と戦った。「彼女は遺体を撃ち抜かれた。彼女には降伏するように説得したが、発砲してきた」とホワイトハースト氏は語った。彼女は、患者と看護婦を守りながら、中国の旧式のSKSという単発式のライフル銃で、重装備のアメリカ軍に応戦し殺された。ダン・トゥイ・チャムは、額を撃ち抜かれ即死して倒れた。

 彼女のリュックサックは遺体のそばにあった。中から、小型のソニーのラジオ、包帯、局部麻酔薬、スケッチと彼女が治療した傷に関するノートが出てきた。北ベトナム兵大尉に書いたいくつかの詩の束と大尉の写真も出てきた。彼女の日記となる2冊のノートは、ジャングルの中の近くの道に落ちていた。ダン・トゥイ・チャム医師の長くて危険な戦争は終わった。27歳だった。

(2)では、ゆかりの地とゆかりの人々を紹介したい。Posted by Picasa

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