2008-07-30

戦争で破滅した人生(上)

彼が戦争から戻って30年。一人のベトナム戦争復員兵の人生はもつれた糸のようにほどけない。今も、何千という人々が、未だ自分の人生の話を披瀝することができないでいる。
バリー・ハード氏。62歳。(写真)最後のオーストラリア軍がベトナムから撤退して30年以上も経つのに、自分のベトナムでの経験を書こうという気にはどうしてもなれなかった。

戦闘の話―軍の悲惨な話は種々の形で、何千回となく伝えられてきた。しかし、ハードの話・・戦前にも、戦後にも何の権利も主張したことがなく、最悪の大虐殺を一部経験したつつましやかな男の話が、やっと心の底からさらけ出された。

彼は、ねじ曲がった遺体がそこにあるのをみた。非常に若く、とても小柄だった。遺体がつけていた黒いパジャマとは裏腹に肌は色白だった。彼は、ベトコンが激しく反撃した後、戦友の遺体を運んだ。

これは、どこかで聞き覚えのある話だった。2005年に出版された彼の本「あっぱれ、仲間よ」への読者の反響に、彼は圧倒された。およそ1万もの人が、著者に接触してきたのだ。学校は、この本を取り上げた。子どもたちは、もっと事実を知りたがった。国営放送で彼の本が放送されると、何千というメールが彼に送られ、ハードディスクがぶっ飛んだ。本は2版出され、いま、著者の後書きも入れた新版が出た。

10年にわたるオーストラリアの参戦でベトナム戦場に行った5万の豪兵士の誰もが、こういう話を書くことができたであろう。しかし、ハードは、実際それをやり遂げた。仲間からの渾名は“タード”だった。ハードがベトナムから戻ってきて自分たちの努力が感謝されていないのを知った時に、生の神経がえぐり取られた。通りは反戦のポスターで溢れ、世界中が、ベトナムに参戦すべきかどうかの苦々しい議論が沸騰していた。1987年に帰国歓迎パレードを含めて、それ以来和解が行われてきた。しかし、歴史における“忘れられた戦争”から戻った兵士へぶつけられた最初の威圧感は失せていない。素直になるのに、12年もかかった。

ハードは、1945年1月にメルボルンに生まれ、ヴィクトリア州の片田舎で育った。彼は、最初の招集で徴兵猶予をうけて、第3回の招集で軍隊に入った。彼は、NSW州のパッカプンヤル、シングルトンで訓練を受け、その後クインズランドカヌングラ密林訓練センターとショールウォター・ベイに移った。ロイヤル・オーストラリア連隊第7大隊に配属され、ベトナムに派遣された。

大隊が着いたとき、兵士たちは元気づいた。ロング・タンの戦闘を経験し、完全勝利を収めていた。敵は大砲もなく、航空機も武器も持っていなかったから、先ず決然とした反撃の姿勢を示せば退却すると見られていた。ハードは言った。「われわれの待ち伏せは成功した。その結果、敵との遭遇でもうまくいき敵を殺した」と。それから、負傷した獲物のように彼らを追跡した。「点々とした血の跡、阿鼻叫喚、泥の中の逃げた足跡を、軍は追った。行方をくらましたベトコンの居場所をつきとめるために、可能な場合には訓練された探知犬と調教者を大至急呼んだ」と、彼は文章に綴った。「やがて、探知犬が敵を発見すると、軍が追い討ちをかけ、殺した。」

 負傷したベトコンの一人は、下草の中に身を潜めた武器をもたない若い女性だった。彼女は殺された。ハードの戦友の一人で、“ナッカーズ”というニックネームの人は、特に彼女の殺戮に大きな精神的動揺を受けた。ハードは、こう書いている。「例え戦争とはいえ、哀れっぽく泣くその若い女性の姿と、射殺された彼女の記憶は、何が正しいかという内部規則に合致するものではなかった」

ハードは、「われわれがしたこと・・われわれは人間的ではなかった。目が覚めて、自分の仕事が人々を殺すことだと分かったことは、恐ろしいことだ。これは、私が読んだ手紙に書いてあったことだが、ほんとうに自分の心を傷つけ、精神も傷つけたことは、間違いだった。わかるでしょ。最後には、自分がほんとうにいやになるのだ。そして、そこから心配が起き、鬱状態になる。いろんな奴が俺に言った。それはお前の役だよ。タード、お前が俺の本を書いてくれよ、と」と、ヘラルド紙に語った。

兵士の人生を食いちぎったものは、政治色の強い戦争と、多くの政治論議が、兵隊の行為を無視してきた事実だった。探知犬のラブラドールがあきらかに高温で死んだ時に、新聞の第1面に載った。当時のマルコム・フレーザー国防相は、それを調べると約束をした。(つづく)Posted by Picasa

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