2007-09-18

燃える女性グエン・ティ・ゴク・トアン博士(1)

ベトナムのれ葉剤被害者協会(VAVA)の化学担当常務理事をされているグエン・ティ・ゴク・トアン先生のお話をしておこう。ご主人と息子さんを枯れ葉剤で亡くされたトアン先生。71歳にして、枯れ葉剤被害者のために、正義を求める闘いをしている。私たちは昨年、協会本部でお会いしているが、私も個人的に別の機会におめにかかってお話を聞かせて頂いたことがあった。 (上の写真:前列一番右の方)              
                    
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 私は、ベトナムで、二つの戦争を生き抜いてきました。1945年から1954年までの抗仏戦争です。そして、1960年から1975年までの抗米戦争です。終戦の1975年は、4人の子持ちの主婦でした。抗米戦争では、私の夫と4人の子どものうち2人が取られました。この長い年月、私を精神的に強く支えた物は、わが国の独立戦争に私自身が戦っているということでした。

 それが、ベトナム人民軍の大将であった私の夫と共通に持っていた理論でした。ホーチミン主席は言いました。「自由と独立ほど尊いものはない」と。誰もがベトナムの解放のために戦っていたので、その言葉に若かった私は深い衝撃を受けました。

 旅に出る・・・

 私がなぜ革命の道に加わったかを説明するために、私の若き時代と私の家族について触れたいと思います。私は、1930年にフエで生まれました。美しい家で私の両親と14人の一族の愛情に育まれました。父は、私が6歳の時になくなりましたが、カイディン帝の元で首相を務めていました。皇帝とつながりのある多くの王族と同じように、私たちも愛国者でした。故国に忠誠なることが、わが家族の美徳でした。

 フランスの学校で先生達は好きでしたが、我が国を占領しているフランスには憤りを感じていました。それから、第2次世界大戦が終わった時に、我が国は、日本軍の植民地になっただけでなく、フランス軍が戻ってきそうな雰囲気でした。しかしながら、われわれベトナム人は、フランスにも日本にも、我が国を委ねる積もりはありませんでした。

 私は15歳でした。私の唯一の夢は、ベトナム軍に参加することでした。私の級友と私は、歌を歌いました。「ペンをおいて、旅に出よう・・・・」と。しかし、母は言いました。「戦闘は、男の仕事よ。女の人は家にいるものよ」と。
私はすぐさま、噛みつきました。
「お母さん、もし私のことを気にかけてくれるなら、私を行かせてくれない? 私は変なことはしないって約束するから」

 私は、革命に参加したかったのです。なぜなら、私は生まれつき好奇心の強い女性でしたので。波瀾万丈な人生を、私は希望していました。家から学校に行って戻るという毎日の決まった生活とは違った生活を望んでいました。私の家族は厳しかったです。非常に厳格だったと思います。そして、私は何より自由を切望していました。 (つづく)
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