2007-09-13

戦場に死した若き女医の日記と和解

ベトナムでの枯れ葉剤被害者支援活動から戻ってきたばかりだ。ベトナムでは、いま、ベトナム戦争中の激戦地の一つ、クアンガイ省の野戦病院でアメリカ軍と戦って死亡したダン・トゥイ・チャムというわずか27歳の女医の日記(上)がアメリカや故国ベトナムで出版され、今、旋風を巻き起こしている。

 「私は、十分な薬もないのに虫垂炎の手術をしなければならなかった。しかし、その若い負傷兵は一度も泣いたこともうめき声を上げたこともなかった。彼は、笑みを絶やさず私を励まし続けた」 ダン・トゥイ・チャムの日記は、こういう書き出しで始まっている。

ダン・トゥイ・チャム(下)とは、ベトナム戦争でアメリカ軍と戦い、アメリカ軍の攻撃から自分の担当する野戦病院を守ろうとして死んだ北ベトナム軍医のことだ。

元アメリカ情報士官の手元で35年間眠っていた彼女の日記が2005年に世に出てから、ベトナムでは40万部という部数を売って一大旋風を起こしている。ベトナムの若人にも、愛国的ノスタルジアの波紋を広げている。今年の9・11にはアメリカで英語版も出た。

 医者一家の出身のチャム医師は、1967年に、中部ベトナムのクアンガイ省のキリング・フィールドの野戦病院に自ら希望して勤務についた。日記は、その翌年の4月から始まっている。その年のテト攻勢を受けたニクソン大統領は、史上最大の空爆を計画、実行したのである。 仲間の治療に疲労困憊した彼女は、1970年5月の日記に、激しい言葉でニクソンを批判している。

 チャム医師は、患者とスタッフを安全な場所に移動させた後、アメリカ地上軍アメリカルと戦った。彼女は、患者と看護婦を守りながら、中国の旧式のSKSという単発式のライフル銃で、重装備のアメリカ軍に応戦し殺された。  当時22歳の情報士官だったフレデリック・ホワイトハースト氏は、医師の所持品から回収されたチャムの日記を火にくべようとしていた。その時、彼の通訳から「フレッド、それは燃やさない方がいい、その中には、炎があるから」とストップをかけられた。ホワイトハースト氏は、「私は彼が敵のことを尊敬したので感動したから、私はずっと保管していた」と話す。  それから35年後の2005年、その日記は、ハノイの母親の元に戻された。

2005年8月に、日記を保管していた2兄弟がハノイにやってきた。

ハノイでの歓迎に感激した。「許してくれた」と。

チャム医師の墓まで行って、フレッドはひざまづいて子どものように激しく泣いてこう言った。「どうしてこういう人が殺されなくてはならなかったか? 私はいても立ってもいられない」

2人の兄弟は、「チャムさんの家族の一員として、チャムさんの弟にさせてもらいたい」と、チャムさんの母に頼んだ。

最初は腰が重かったフレデリック・ホワイトハースト氏は、ハノイでの歓迎振りに腰を抜かした。

「われわれは、第2次世界大戦で、ドイツロンドンでやったようなことをハノイにしたのだ。理由はともあれ、われわれは侵略者だ。しかし、国民は私たちを抱きしめてくれた。ベトナムの首相ですら会ってくれた。父親は娘の死のあとショックで亡くなられた。それが、ご家族に多くの重荷を背負わせた。ご家族は、娘のことを大変愛していた。それでも、私を息子として迎えてくれた。その愛・・。我が国で私が迎えられた時よりも、ハノイで寛大に扱ってくれた」

一つの和解ができたように思う。Posted by Picasa

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