2006-07-02

枯れ葉剤 悲劇の連鎖(中)

(この記事は、平成15年5月3日の河北新報に掲載したものに加筆修正したものです)

汚染地区
村人 次々と異常訴え

木が生えぬ山肌
 1945年まで13代にわたってグエン朝の王都となっていたベトナム中部の都市フエ。そこからラオス国境まで60キロたらず。フエから北のクアンチ省にかけてはベトナムで一番東西に狭く、それだけラオスが近く迫っている。
 夏は身を焦がすようなラオスからの熱風が容赦なく吹いてくる。

フエを出てチュオンソン山脈の懐、アールオイ県のアーソー地区を目指した。途中の山肌は、枯れ葉剤の影響で、上の写真のごとく、いまだに木が生えていない。ところどころ撒布当時の枯れ木が残っているが、それも朽ちてしまったのか、以前取材した時よりも減ってしまった。 下の写真は、米軍復員兵士が撮影のものだが、撮影場所は不明である。しかし、見覚えのある景色。フエから国道14号線上のアーソーまでの途中と見られる。

山間(やまあい)を縫って登り始めると、有名なホーチミンルート(現国道14号線)にぶつかる。そのT字路を左に折れて、さらに南下する。国境検問所で書類を提出しさらに奥へはいると、アーソー地区がある。

この狭い渓谷には、かつて3つのアメリカ軍基地があって、アメリカ軍、北ベトナム軍、解放戦線軍、南ベトナム政府軍の4つどもえの戦いが繰り広げられた。そして、周辺の山々にはたっぷりと枯れ葉剤が撒かれた。


アーシャオ(アーソーの旧名)空港は、枯れ葉剤を貯蔵していた保管基地の役目も果たした。その昔の戦場は、ひっそりと静まりかえっていた。

住民の生活奪う
空港跡地の前に立っている大きな立て看板には、こう書かれてあった。

「アメリカはこのアールオイ県に、たくさんの爆弾を投下し枯れ葉剤を撒いた。ダイオキシンが入ったエージェント・オレンジが総量の50%以上、300回以上の飛行で50万ガロンを撒布した(略)」
「現在でも、この地域には、ダイオキシンが残っている。ハット・フィールド社(カナダの環境調査会社)が、このアーシャオ空港を重度汚染地区に指定した。アーシャオ空港周辺で生活したり、耕作したり、動物を捕ったり、魚を釣ったりしてはいけない。ドン・ソン地区の魚、ニワトリ、アヒル、家畜の脂や肝臓を食べてはいけない」

身の毛もよだつほどの重大なメッセージが、この中に含まれている。にも、かかわらず、今もこの村で人々が暮らしている。NBCニュースが、人口2千人の村で、5人に1人が何らかの障害を持っているという、医師の話を紹介していた。

村人の一人、カン・ティアさんの家を訪ねて聞き取り調査をした。長女は結婚しているが、目が見えなくなりつつあるという。長男は全身麻痺を時々起こし、自転車に乗っていると、時々転倒することがある。次女は精神障害者。三女も精神障害のようで、ほとんど口をきかない。四女は全盲。水を飲むと、鼻から水が出る。ご飯を食べると、鼻からご飯が出てる。

Posted by Picasa集団疎開が必要だが・・・
この日、ご主人のクイン・ティアさんは、四女を連れて、フエの中央病院に行ったために、私とはすれ違いだった。五女は、最近歯がボロボロと突然抜けた上、視力も落ちた。

聞き取りをしていると、次から次へとひっきりなしに、患者と思える人たちが私のところにやってくる。

精神障害の人。すでに枯れ葉剤の症状が、頭皮、背中などに発症している人。盲目の人。無脳症の子どもを出産したという婦人、などなどである。

村人は、アーソーに住んではいけないことになっている。障害者を増やすだけだ。なのに、ここを去れない。ただひとえに、貧しいからである。そして、行き先が無いからである。

一刻も早く、国際援助で、貧しい村人の集団疎開を実現させるか、ダイオキシンに汚染された土壌の洗浄をするか・・を祈りつつ、村を後にした。

上の写真は、アメリカ軍の爆弾投下で出来たクレーターである。写真の場所は不明である。だが、こういうアメリカ軍の爆弾投下で出来たクレーターが、アーソーでは生々しいままほったらかしにされている。ベトナム背全国には、こういうクレーターが、1千万個から2千万個あるという。

チュオンソン山脈を抜けきらないうちに日没となり、真っ暗な中で車を止めてみた。
そこには、大きな蛍が美しく飛び交っていた。「蛍の多い所は、昔から戦死者が多かった所ですよ」・・・いつかハノイで聞き取り調査をしている時に、旧軍人が私に聞かせてくれた話を思い出した。(つづく)

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